【街歩きツアー】昭和のLoveは令和も続く〜皇居から銀座、そして海〜

ここに江戸城があったという話

江戸時代とは

一般参賀は4日なので、今日は皇居・宮殿方面には行けません。
そんじゃ平成・昭和・大正・明治をすっとばして、江戸時代に思いを馳せようということで「江戸城跡」に行ってみることに。

江戸時代とは

いわゆる“江戸時代”は、慶長8年(1603年)年、天下を統一した徳川家康が、江戸に、徳川の武家政権である幕府を開いてから慶応3年(1867年)に政治の実権を天皇に返還(大政奉還)するまで、実に260年あまりに渡る。

幕府開府から35年間ほどと、幕府瓦解にいたる10数年を別にすれば、だいたいのところ平和な時代だったみたいです。
戦乱の絶えた時代、そりゃ多彩で幅広い文化も栄えるでしょうねぇ。
人口も120万人くらいと推計されており、まさに世界最大の都市だったのだ。

がしかし。
そんな江戸時代の“江戸”の最大のアキレス腱は、何度も何度も繰り返される大火だった。

講師大澤茂雄
おーさわ

記録に残っている大火だけでも、一説によれば200件以上。
260年で200件もの大火。

江戸の江戸の“3大大火”

なかでも江戸の“3大大火”として知られる火災は次のとおり。

《明暦の大火》

別名:振り袖火事
日時:明暦3年(1657年)正月18日
状況:本郷丸山本妙寺から出火。翌19日には小石川伝通院前と麹町からも出
火。3件の出火によって江戸城本丸、ニノ丸、三ノ丸はじめ武家邸や、寺社、倉庫、橋梁などを焼き尽くす。死者10万余人ともいわれ、江戸の町の大半が焦土と化す大惨事。若くして亡くなった娘さんの愛用していた振袖を本妙寺で供養のため焼いたところ、その“振袖”が空に舞い上がって大火になった。

《明和の大火》

別名:行人坂火事
日時:明和9年(1772年)2月29日
状況:目黒行人坂大円寺から出火し、南西風の風にあおられて、麻布、芝か
ら日本橋、京橋、神田、本郷、下谷、浅草と下町一円を焼失し、死者は数千人にも及んだといわれる。

《文化の大火》

別名:芝車火事、あるいは丙寅火事
日時:文化3年(1806年)3月4日
状況:芝車町から出火し、日本橋、京橋、神田、浅草に延焼した。武家邸、
寺社を焼き尽くし500余町が焦土となり、死者は1,200余人といわれる。

講師大澤茂雄
おーさわ

ちなみにですね、徳川将軍の権威を示すシンボル、江戸城が誇る“日本最大の天守閣”は、振袖火事で焼失しちゃいました。

その翌年、加賀前田藩によって土台は築き直されたものの、天守閣建設は延期され、その後ついに再建されることはなかったそうです。

明暦の大火の後も、江戸城の火事は多く、壮麗な江戸城は何度も建て直しをするという憂き目にあっている。

特に幕末あたりになると、天保5年(1834年)から慶応3年(1867年)までの33年間で、なんと9回も火事が起こっており、うち本丸全焼が3回。33年間で本丸を2回、全面的な造営をしたことになる。

幕末の財政状況が苦しい中での、まさに泣きっ面にハチ。滅亡をいっそう早める財政負担となったのかもね。

で、授業では、ここから話を「防火地域・準防火地域」に展開させるケースが多いです。

江戸城「3大がっかり」を見に行こう

・・・・・ということで「江戸城」はほぼほぼ火事で焼けてしまったので、「江戸時代」に思いを馳せる「物」が、物理的にほとんどない。

なので、跡地を見に行って、みんなでがっかりしてみよう。

ここに江戸城があったらしい原っぱ。

「3大がっかり」とは

宅建ダイナマイターズでCA(キャビンアテンダント)をやっている某美女から聞いたんだけど、「世界3大がっかり」というのがあるらしい。実際に観光で行ってみたら「がっかり」するという代物で、代表例がシンガポールのマーライオンらしい。行ったことないけど・・・。

がっかりポイントその1:松の大廊下跡

かの「殿中でござる」で有名な、忠臣蔵の発端となった浅野内匠頭と吉良上野介の刃傷事件の現場。吉良上野介に切りつけた浅野内匠頭は翌日切腹。廊下の碑しかない。

で、この人たちはなにをやっているのかというと「刃傷事件」の再現らしい。

がっかりポイントその2:大奥跡

大奥は将軍の正妻御台所をはじめ、女性だけが住む広大な御殿。この「大奥」から派生した言葉が「奥様」「奥方」。なので、チンケな3LDKくらいで奥様もへったくれもない。ここも碑しかない。

がっかりしている人々。

がっかりポイントその3:江戸城天守閣

日本最大の天守閣(東西33m、南北30.6m)だったらしいが、土台だけ現存していて、上がない。うっかりすると「ピラミッドの跡」と勘違いする。

とりあえず、土台の頂上に行ってみよう。

頂上から平川門方面を見る人たち。

平川門とは

平川門は江戸城の北東、艮(うしとら)の方角で、いわゆる鬼門となるみたい。そのため平川門は「不浄門」とも呼ばれていたらしい。

講師大澤茂雄
おーさわ

「不浄門」ということだから、罪人や遺体はここから出されていたみたいです。たとえば浅野内匠頭は城内の座敷牢に留め置かれた後、この平川門から一関藩主・田村邸へ移された模様。

ページ「3」に続く

大澤茂雄

投稿者: 大澤茂雄

正直に申します。私は「宅建受験講座」が大好きです。もうちょっと具体的にいいますと、「宅建受験講座」で取り扱う「法律」が好きです。民法をはじめ借地借家法、区分所有法、不動産登記法。そして宅建業法から、都市計画法や建築基準法などなど。おおげさにいえば「愛している」という感じでしょうか。

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