北九州ツアー門司港編

「鉄は国家なり」がテーマの、11月の北九州ツアー。

炭鉱(田川伊田)〜製鉄所(官営八幡製鉄所)〜積み出し港(門司港)をぶらぶらしてみようかと。

で、ここ2〜3日、11月とは思えるポカポカ陽気でいいあんばい。
おかげさまで炭鉱(田川伊田)〜製鉄所(官営八幡製鉄所)を念願通りにぶらぶらできたので、次は石炭の積出港へいってみようかと。

門司港。

かれこれ30年以上前の話なんだけど、バイク(ヤマハXJ400ZS)で日本一周の旅をしていたとき、下関から関門橋をぶっ飛ばして九州に入った記憶がある。
そのとき、そりゃ関門海峡を渡ったわけだから、もちろん門司という街を通ったはずなんだけど、そんときはこの界隈には立ち寄らなかった(と思われる)。

なのでね、お初にお目にかかります的な。
界隈は、門司港レトロとして、観光にもチカラが入っております。

門司港レトロの見どころ【北九州市作成:最新!!】

wikipediaによりますと

【門司港レトロ】

駅周辺は港と当駅を中心にして古くから栄えた市街地(門司港地区)で門司区の中心部にあたる。現在、当駅駅舎や周辺の歴史的建造物を活かした観光スポット(門司港レトロ)となっている。

ホテルから見える港。
第一船だまり。
すっごく素敵なロケーション。
部屋はデラックスダブル。

そうです、無駄ですが。

・・・なにか?

ちなみに、駅なんだけど、門司駅と門司港駅があって、アレ? ホテルどっちだ、みたいな。
ありがちっすね〜\(^o^)/
そうです、門司港駅が正解です。

で、wikipediaによりますと・・・

【門司港駅】

当初は、九州鉄道の起点の駅、門司駅として1891年(明治24年)4月1日に開設された。
関門トンネルが開通するまで九州の鉄道の玄関口であり、対岸の下関駅との間に就航した関門連絡船との連絡中継駅として賑わった。駅舎は重要文化財に指定されている。日本経済新聞社の2007年アンケート「足を延ばして訪れて見たい駅」の全国第1位にランクされた。

でね、炭鉱(田川伊田)〜製鉄所(官営八幡製鉄所)〜積み出し港(門司港)という「流れ」だったということだから、となると、当時の「流れ」、つまり物流はどんなあんばいだったのかなと。
で、とりあえず鉄道鉄道記念館に行ってみる。

これが関門トンネルで列車を牽引していた、初代の機関車(だそうです)。
無骨でパワフル。
オトコは黙ってサッポロビール、みたいな(←若い衆は知らんだろうが・笑)
いまや絶滅した往年の男子像、みたいな。
プロレスでいうと、黒パンツでのストロングスタイル、みたいな。

講師大澤茂雄
おーさわ

オンナに迎合していない感じで、いいっすね〜。
・・・と、人生の基本スタンスが「オンナに迎合」の自分がいうのもなんですが(汗)

もうちょっと歴史をさかのぼっての、蒸気機関車もあった。

蒸気機関車といえば、みなさんもそうだと思いますけど、東映映画「緋牡丹博徒・花札勝負」を思い出しまよね。

聞くところによると、港の整備より先に行われたのが鉄道の施設だそうです。

鉄道は父たり。
築港は母たり。

・・・なんか、かっちょええ。

さて、ビールでも飲むか。

宅建ダイナマイトの実務系エンタメ講師の石ちゃんセンセーが、例の声で「おーさわせんせー、門司に行くんでしたら、カレーですよ、ぜひ。焼きカレー。うまいですよ」と言ってたので、食ってみたら、うめー。
地ビールもうめー。

11月の平日の昼下がり。
ぜいたくな時を過ごしております。

さて。港に。

門司港レトロ展望室から下関方面。
向こうに見える関門橋。

眼下に門司の街。
第一船だまりとレンガのホテル。

そうだ、連絡船で下関に行ってみよう。
下関側の唐津というところに行く便がけっこうあって、乗船時間は5分ほど。
気持ちいい潮風。

往復して港に戻り、しばしぼぉ〜っと過ごす。
ぜいたくだわ、ほんとに。

コジャレたカフェでコーヒーを飲みながら、持参してきた「《写真記録》関門港の女沖仲仕たち」のページをめくる。

《写真記録》関門港の女沖仲仕たち: 近代北九州の一風景。林 えいだい (著)。新評論。

冒頭より引用させていただきますと

福岡県北九州市門司区、関門海峡を望む港に、かつて「女沖仲仕」「女ごんぞう」と呼ばれる荷役労働者たちがいた。
筑豊炭田と北九州工業地帯の繁栄、ひいては戦後の高度経済成長を下支えした彼女らは、エネルギー転換と技術の進展にともない、やがてうちすてられていく。
港はもう彼女たちを呼んではいない。
だが、港湾労働の職業意識に徹した誇りと自負。
過酷な作業に耐えるたくましさと開放的な笑顔を、私たちは決して忘れない。

おーさわ注:沖仲仕→おきなかし、と読みます。

ちなみに編集部からとして、以下。

「沖仲仕」や「ごんぞう」という言葉は、現在では差別用語とみなされる場合がありますが、本書では歴史的呼称として用いてます。ご理解いただけますようお願い申し上げます。

とのこと。

いまは北九州市門司区となっているけど、その昔は門司市だったそうです。1963年2月10日に、門司市、小倉市、若松市、八幡市、戸畑市が合併し北九州市に。「北九州市」という名称は公募で決まったそうです。
向こうに関門橋が見える。関門海峡にひしめく船。

っていうか、そもそも「仲仕」とはなにかというと。
こちらも本書の本文から少し引用させていただきますが。

仲仕とは、さまざまな荷を船から陸へ、陸から船へと荷揚げ・荷下ろしをする仕事である。
港湾で荷役に就く者を仲仕、海上(船内)で働く者を沖仲仕という。
これらをいやらしい仕事とみなす向きがあり、「仲仕」も「ごんぞう」も蔑称として使われることがある。
だが、これは沖の仕事を理解していない者の考えることだ。
少しでも彼女らを知れば、そのような見方ができるはずはない。

・・・・とも。

あと、「沖仲仕」をどうして「ごんぞう」というのだろうか。

日雇港湾労働者のことを、関東では「ハマの風太郎(ぷうたろう)」、阪神では「ミナトのアンコ」、北海道では「ゴモ」、そして北九州(門司・若松)では「ゴンゾ」ないしは「ごんぞう」と呼んだ。
この呼称がいつから始まったのか、はっきりした記録はない。
土地の古老が伝えるところでは、明治24年(1891年)、石炭荷役請負業者の自念組が、日本郵政の荷役を請け負ったときにさかのぼる。
このとき、組が神戸から連れてきた沖仲仕たちのなかに権蔵(ごんぞう)という若者がいた。
たいそうな力持ちで、荷役の技術も抜きん出ていた。
色白の美男子で、しかも任侠心に富んでいたので、たちまち若い娘たちの憧れの的になった。
組の親方である自念金蔵は、なにかにつけて「権蔵を見習え」と言った。
ところが権蔵は若くして肺結核で亡くなってしまう。
その死を悼み、門司では「ごんぞう」の名を、沖仲仕の代名詞として用いるようになったという。

さて、彼女らはどんな生活を送っていたかというと。
以下、本書より引用を続けます。

昔から「浜(ハマ)と「炭鉱(やま)は朝が早い」と言われる。
職業安定所での日雇労働者への斡旋は、午前7時20分から始まる。
登録された者には、輪番制で各社(港湾運送会社や荷役請負業者)のチケットが渡される。
一日の仕事の始まりは職安にありと言われるように、ここでの割り当てがないとその日はアブレることになる。
職を求める男女の港湾労働者の群れと、名前を呼び上げるスピーカーの音が入り乱れて騒々しい。

で、どんな仕事だったかというと・・・。

8時には、ポンと呼ばれる通船(かいせん。港から荷役が行われる本線まで人や道具を運ぶ船)が、労働者たちを乗せて沖の本船めがけて一斉に離岸する。
本船に乗り込むと、船底の広大なダンブル(貨物置き場)で重労働が始まる。
石炭や小麦をスコップでモッコと呼ばれる網(満杯になると甲板までモッコごと引き揚げる)に移す入鍬(いれくわ)、小麦などの袋が破けるとすばやく繕う針(はりや)など、その手さばき、体さばきは見事としか言いようがない。

さらに。

石炭船や旅客船など、欧州航路の大型船が次々と入港すると、二オールナイ、三オールナイという恐るべき長時間労働が行われた。
「オールナイ」、つまりオールナイトといっても、単なる徹夜ではすまされない。
一つ終わると次の船、さらに別の船へと満足な休憩もとらず、六十数時間ぶっ続けで働くこともあった。
これほど過酷な連続労働に耐えてきた彼女たちの話を聞くと、残酷さを通り越して人間業ではないような気がしてくる。

・・・なんだか、ね。

本来、港湾荷役という重労働は、女がする仕事ではないと言われている。
関門港独特の「天狗取り」という石炭荷役(「手繰り」が訛って「天狗取り」になったと言われている)や、鉄鉱石等を網に移す「モッコ取り」などの重労働は、男の沖仲仕でも耐えがたいほどの苦痛をともなう。
しかも、関門海峡の潮流は激しく、時化(しけ)の日の荷役は命が縮まる思いがするという。
重労働の上に危険このうえない職場である。
どれだけの人たちが命を落としたことか。

通船も本船も、関門海峡の早い潮に大きく揺れる。
そのうえ雨でも降れば、ジャコップ(縄梯子)のロープが滑ってはなはだ危険だ。
落ちたら最後、よほど海が穏やかでなければ助けてもらえない。
救助する側も命にかかわるからだ。
荷役自体も危険を伴うが、仕事場に向かうところから、彼女たちの命がけの仕事は始まっている。

関門海峡の潮の流れは非常に速く、船から落ちて溺死した者の遺体が長崎や四国で見つかることもあった。

そもそも、門司の歴史的背景なんですが。以下。

明治20年(1887年)以降、(門司港は)石炭の積み出し港として、さらには船舶燃料の焚料炭(バンカー)を積み込むための寄港地として栄えてきた門司の長い歴史がある。
これら積み出し・積み込みの荷役に女沖仲仕が必要とされたのであり、それがこんにちまで引き継がれてきたのだ。

その後、どうなったかというと、昭和25年前後あたりまでだと、ニッポンのエネルギー源の8割くらいは国内の石炭だったんだけど(たぶん)、その後、石炭から石油(重油)となり、「筑豊の石炭」も衰退していく。昭和30年ごろから筑豊では閉山が相次ぎ、結果として石炭輸出港であった門司港も大打撃を受け、徐々に人は港から離れていった。
そして、機械化。コンテナ化。

・・・消えゆく沖の仕事。

ちなみにバナナの叩き売りは、門司が発祥らしいですわ。

wikipediaによりますと

【バナナの叩き売り】

バナナの叩き売り(バナナのたたきうり)は、かつて露天商、的屋が行う、独特の口上を述べながら客を引き寄せてバナナを露天で売る手法(いわゆる啖呵売のひとつ)。大正時代初期に福岡県門司市(現北九州市門司区)の門司港周辺で行われたのが発祥と言われている。

啖呵売ってわかる??

wikipediaによりますと

【啖呵売】

啖呵売(たんかばい)とは、ごくあたりまえの品物を、巧みな話術で客を楽しませ、いい気分にさせて売りさばく商売手法である。
昔の縁日や露天商、路上販売などで、よく行われていた。 地口などを混じえた流れるような独自の口上は一種の芸(芸能・芸道)としても評価されており、「バナナの叩き売り」などは有名な例である。また、実演販売は、商品価値を具体的にPRするマーケティング手法であり、より洗練された現代版啖呵売といえる。

講師大澤茂雄
おーさわ

つまり、我々がやっている講師稼業とかですかね。

それでは啖呵売を。
「地口(=言葉遊び)などを混じえた流れるような独自の口上」の見本を、寅さんにて。

講師大澤茂雄
おーさわ

「四角四面は豆腐屋の娘、色は白いが水くさい。四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れるお茶の水、粋な姉ちゃん立ち小便。」
ワタクシの授業でのリピートアフターミーは、この「寅さん」になりたいという思いがベースです。オマージュですね。

そうこうしているうちに。

門司の夜は素敵よ、とみんな言ってまして。
たしかにそうです。
素敵です。

で、ホテル。
これがまた、超絶いいロケーションのデラックスダブルルーム。

こんどはオンナと来てーよぉ〜(涙)

悶絶して寝る。

大澤茂雄

投稿者: 大澤茂雄

正直に申します。私は「宅建受験講座」が大好きです。もうちょっと具体的にいいますと、「宅建受験講座」で取り扱う「法律」が好きです。民法をはじめ借地借家法、区分所有法、不動産登記法。そして宅建業法から、都市計画法や建築基準法などなど。おおげさにいえば「愛している」という感じでしょうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA