【宅建ダ】あらためて自己紹介をさせていただきます。宅建講師になる前の年、私はバイクで日本一周(正確にいうと南日本一周)の旅に出たのです。

片岡義男氏の小説が好きです。
いまもこんな感じ。
赤の背表紙の角川文庫。
同世代のみなさんだったらね、あらま、なつかしい。
そんな感じでしょ。
で、ザンネンなのことに、ぜんぶ絶版なんですよね。
なので、たしか高校生くらいのときに買った、いちばん最初は「スローなブギにしてくれ」だったかな、それからしばらく、ずっと読んでて、ずっと持っています。
とくに影響を受けましたのが、こちらですね。
あまりに好き過ぎて、表紙のバージョン違いを3つ持っています。
中身はいっしょですが(笑)。
バイク小説が、たまらなく好き。
いまも好き。
それから、登場する女性が好き。
氏の小説に登場する女性は、男や会社とか、そもそもの人間関係に頼らず自立していて、輪郭がきりっとしている感じで、乾いたシャツに髪をなびかせて、みたいな。
多感な時期に。氏の世界観&女性観を浴びに浴びまくっていたので、いまだに、そうなんです、そういう女性が好きです。
でね、たとえば「人魚はクールにグッドバイ(文庫本「味噌汁は朝のブルース」に収録)」という小説があって(いまだに好きで)、たぶん、小説に出てくるアイドルグループのモデルは当時のトップアイドル「キャンディーズ」なのかな、そんでね、彼女たちのデビュー曲は「人魚」をモチーフにしていたりする。
なので人魚。
で、主人公の男性(ふたり)のうちの1人が、このグループのうちの1人の女の子のファンで、というお話なんですけど、その後の展開が、サイコー。
そうなんですよ、トップアイドルなんだけど、その女の子もしがらみがない。
多忙な彼女たちにひさびさのオフがあって、その彼女にもひさびさの自由時間。そのオフ日程を知った彼らは・・・
そして翌朝、別荘の駐車場で自分のクルマ(タヒチアンレッドのフェアレディZです!!)に乗り込んだ彼女は、つまり人魚は、彼らに、クールに、グッドバイなのです。
そんなこんなで青春をやっていた当時、ワタクシは宅建試験を受験したわけなんですが。
23歳(昭和62年)のころでした。
ちなみにですね、宅建を受験した理由は〇〇嬢(当時22歳)の気を引くためでした。
当時、女子大を卒業した彼女は父親のコネで不動産会社に就職しており、で、彼女の上司が宅建を持っていた。
いちおうわれわれは交際(清くない)をしていた、とオレは思っていたのだが、〇〇嬢はどうも上司が好きになってしまったようで、焦ったオレはウジウジしてたらますます嫌われそうになり(若いなりに、セックスが遠のく気配は感じた)、そしたら彼女が「じゃあおーさわくんも宅建くらいとれば」みたいなことを言ったので、「よっしゃとったろうじゃないか」と、燃えに燃えた。
性欲が人を前進させるのだということを、身を持って実感した。
で、合格したんですけど、結局はフラレましたがね。
で、「ま、それはそれでいっかなと」かえってサバサバしたオレは、新卒で入った店舗デザイン会社を辞めて、バイクで日本一周(正確にいうと南日本一周)に旅立ったのでした。
早い話が、片岡義男氏の小説そのままに、実際にバイクで旅に出てみようと。
彼のオートバイ、彼女の島
幸せは白いTシャツ
ときには星の下で眠る
ボビーに首ったけ
まぁ、このあたりの小説の主人公になったつもりでね。
この写真は、たしか旅立つ前。
そんときのバイク仲間に「行ってくるから」と言ったような気がする。
当時はですね、日本一周みたいなのが流行っていて、新しい街にいけば、その街に、かならずライダーがいました。
みんなおんなじような装備で、ぶらぶらしてました。
世の中、どこに行っても景気がいいので、カネがなくなったら、たどり着いた街で短期のバイトをすればいいわけです。
なんでもあったよ、仕事。
しばらく働いて、カネができたら、また旅に出る。
オンナの子も、ふつうにバイクで旅をしていた。
日本っていい国なんですね。
安全で、みんな親切で。
カネもすぐ稼げるしね。
で、新宿の自宅から沖縄までバイクで行ったんだけど、その当時の沖縄のパンフレットがこちら。
いいオンナでしょ。
このパンフレットを、旅に出てから、たぶんどっかの街で手にしたんだろうけど、そのとき、沖縄に行ってみようかな、と思ったことを覚えている。
いいオンナだな〜、が動機。
で、四国をぶらぶら(1ヵ月くらいぶらぶらしてたのかな)、九州をぶらぶら、そのうち鹿児島までたどり着いたので、街の人にきいたら、最終フェリーがもうすぐだよ、というので、そんじゃ行ってみっかと、フェリーにバイクを乗せて沖縄に向かい、みたいな感じで流れていきましてね。
そんときのフェリーの写真が、冒頭の写真です。
これ。
ナンパしてます。
一人旅はいいですね。
一人で遊びたいときは、一人でいればいいわけで、人恋しくなったら、巡り合って仲良くなればいいですしね。
鹿児島からフェリーで沖縄まで、たしか30時間くらだったかな。
沖縄についたのが夕方で、そんときの写真(だったと思う)。
もちろん沖縄に行ってはみたものの、まるっきりアテなんかないんだけど、そうこうしているうちに、街で知り合った人が、「オレのウチ、空き家だから住んでていいよ」といってくれたので、なんとそこにはバイクをおける車庫もあって、「ありがとうございます」と半月ほど住んでいました。
その人はパチンコ屋さんの店長で、ものすごく気前がよくて、ほとんど毎日、メシを食わせてくれました。
たまに彼女を連れてくるんですけど、その女の人は、とってもいい匂いでした。
1ヵ月くらいぶらぶらしてたんですけど、もちろん沖縄の一流のビーチにも遊びにいきましてね。
当時、ハイレグが流行っていて、ハイレグなおねえさんたちがいっぱいいて、とてもよかったです。
店長の空き家をベースにして、現地で知り合った友だち(すぐ友だちになっちゃうんでね)と竹富島に行ったり、店長に「2週間ほど留守にします」と告げて沖縄本島から石垣島、石垣島から西表島に行ったりもしました。
そりゃ楽しいのなんの。
そんな日々を過ごしていたある日、沖縄本島に戻って、たぶん万座ビーチで遊んでたときだったと思うんだけど。
あれ?
あれ?
あれ?
なんと、あの沖縄のパンフレットの女の子が、ビーチにいた。
キャンペーンの仕事があったみたい。
まさに小説の世界(笑)
こんなことがあるんだなと。
そんとき、「ぼく、あなたに会いにきたんですよ、新宿からバイクで」と、すっげーテキトーなことを言ったこと覚えています。
彼女に会うまで、パンフレットのことなんか忘れてたんだけどね。
その後、最西端(与那国島)と最南端(波照間島)に行きました。
この2つの島は、行き来するフェリーがなくてバイクで上陸できない。
しかたがないので、石垣島の街で知り合った人の家にバイクを置かせてもらって、カラダ一つで行きました。
ただ、最西端も最南端も、原チャリがないと行けないところだったので、それぞれの島の港で知り合った人に、原チャリあったら貸してください、と頼んでみたりしましてね。
そしたら親切な人もいて、貸してくれたんですね。
レンタルバイクなんて、そんなシャレたものはない時代だったし、そもそもが離島、それも南海の孤島だしね。
サービス業自体が、当時は島になかったんじゃないかなー。
ポケットカメラのセルフタイマーとかんたんな三脚が、一人旅の必需品。
最西端と最南端の、まさに突端の岩を触ってみたら気が済んだので、そろそろ新宿に帰ろうかな、という気分になりました。
で、この年の秋、某大手専門学校に宅建講師として潜り込んで、翌年、年号が平成になった1月に、宅建講師としてデビューしまして、いまに至ります。