【宅建ダ】梅雨が明けて強烈な日射しが照りつける日々が続く夏の到来。

二十四節気で、いよいよ「大暑」ですね。
7月22日〜23日頃となっています。
梅雨が明けて強烈な日射しが照りつける日々が続く夏の到来。
8月7日ごろには立秋だから、夏は2週間。
夏が大好き。
そんな血が騒ぐので、午前中にサクッと仕上げちゃいたい案件を仕上げちゃってから、強烈な太陽を味わいに。
3時間くらい時間が取れそうだったんで、『吉原』に行ってみました。
もともとは人形町あたりにあった遊郭が、そもそもは街はずれにあったらしいんだけど、町が広がってきて、結果、こういうのが町中にあるのもどうなんだろうか、みたいな話になって、こっちに移ってきた。
浅草寺裏。
田んぼだらけの湿地帯。
盛土をし、島を作って、周囲をお歯黒どぶで囲んだ。
逃げ出さないようにね。
出入りできるのは、吉原大門から。
・・・という話っすよね。
340年の歴史がある。
っていうか、340年もそんなことやってたのね、という驚きも。江戸時代から昭和まで、ですね。
そもそもの江戸時代に、なんでまた。
江戸に徳川幕府が開かれてのち、花のお江戸でひとはたあげようと、全国各地から男が集まってきて、結果、女性の数が極端に少なくなってきて、ということらしい。
工業系の街で、その近隣の界隈がその手の街になるというのも、江戸時代からの「定番」なんでしょうね。
都市計画図を見ているとき、いつも江戸時代に思いを馳せます。
で、どうも、この花園通りが、お歯黒どぶだったような。
樋口一葉さんの『たけくらべ』の冒頭部分に、
廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯黒どぶに灯火うつる三階の騒ぎも手にとる如く、明け暮れなしの車の往来にはかりしられぬ全盛をうらないで・・・
と、お歯黒どぶが登場しています。
ちなみに『見返り柳』はこれ。あれ?。
さて。
吉原に出入りするのは大門の1箇所のみ。
そりゃもちろんメインゲートだから、賑々しくも華やかで、お歯黒どぶで囲まれたこの「島」での出入口はこの1箇所のみとすることで、『郭』の非日常性を演出する重要な仕掛けにもなっていた。
・・・という話はよく聞くんだけど、ひっそりと不浄門という裏門もあったらしい。
というのもですね、『郭』にはいまでいうところの都市施設、ゴミ処理施設だとか下水道施設がないみたいだったので、どうしてたんだろ、と。
『郭』での少量の排水はお歯黒どぶに流していたようなんだけど、そりゃ一晩にものすごい数のお客さんと、遊女も1,000人だとかもっといたとか、諸説あるみたいだけど、そんだけ人が『郭』にいれば、喰ったり飲んだり出したりするだろうしね。
で、調べてみたら、大門の反対側に不浄門があったらしい。
そこから搬出されていた模様。
廓内で亡くなった遊女たちもそこから、だったみたい。
いろんなことをさせられちゃうし、そもそも前借金(親に売られたとか)で手元におカネはないし、ろくに物も食べさせてもらえず、そのうえ朝帰りの客がいるから寝させてもられず、避妊もできず、梅毒とか病気になったら放置、「逃げようとして捕まって折檻され」という事例も相当あったみたいですね。
いちばん多い年齢が「23歳くらい」だったみたいです。
不浄門から運び出されて、三ノ輪の浄閑寺へ。
投げ込み寺。
1万1,000人がここに。
2万人以上という説もあるみたい。