「なんなのよ、もう」。骨折、不登校、ダメ押しのインフル。降りかかる火の粉を燃料に変えたシングルマザー「38点」の凱旋。

40代後半、シングルマザーの焦りと挑戦

「このまま今の仕事を続けて、10年後、子どもが成人した時に私はどうなっているんだろう?」

静まり返った夜中にふと襲ってくる、正体のわからない不安。
発達障がいを持つ子を育てるシングルマザーとして、毎日をただやり過ごすだけの自分に、私は強い焦りを感じていた。
キャリアプランも見えず、自分に自信が持てない。
「何かを変えなければ」と思いながらも、手探り状態のまま時間だけが過ぎていく。

そんな時、支援団体の面談で実家の不動産を相談したとき、ふと投げかけられた言葉が運命を変えた。
「宅建を取ってみるのも、いいんじゃない?」

・・・宅建???

そんな難しい国家資格なんて自分には縁がないと思っていたが、「一生ものの資格」という響きが刺さる。
もちろん、なかばそのときのノリに近い感覚だったけど。

でも、“達成感への渇望”に抗えなかったので、私は、挑戦を決めた。

紹介された宅建スクールは「宅建ダイナマイト」で、聞いたこともなかった。
大丈夫なのか!?
内容も難易度も全く知らないまま、私の無謀な挑戦が始まった。

重なる不運と1年目の挫折

まずは、テキストを見ながら音声講義を始めたが、何を言っているのか分からない。
宅建は法律の試験だったのだ。
日本語なのに“日本語”が分からないことにショックを受けた。

おーさわ校長にLINEで頻繁に質問を投げても、返信文の内容を理解するのに一苦労。
いじめているのかしら、私を(笑)。
法律用語が、その文章表現が、まるで呪文か、知らない国の言語のように見えた。

勉強を開始してすぐ、試練が重なりはじめた。

子どもの発達障がいが正式に判明し、各所への支援手続き、診断書のための病院探し、そして障がいそのものについての猛勉強が、宅建の学習と並行して始まったのだ。

追い打ちをかけるように不運が襲う。
子どもと遊びに行ったアスレチックで、左手首を骨折した。

フォークのように曲がった手首を見て、「あ、これは折れたな」と20代の頃の骨折したときの記憶が蘇る。
救急車の中で「なぜ今、このタイミングなのか」と天を仰いだ。

術後の日々。
毎朝、目が覚めても、手首が石のように固まって動かない。

激痛に耐えながらリハビリに通い、その足で役所へ向かい、子どもの支援プランの書類を抱える。
夜、ようやく机に向かえても、宅建ダイナマイトのテキストを開く気力なんて1ミリも残っていない日もあった。

仕事では役割上“プロ”として振る舞い、役所では「支援を求める親」になり、机に向かえば「無力な受験生」になる。
ひとときも休まることのない“役割の切り替え”だけで心身は疲弊した。

文字面を追っても、脳が法律用語を拒絶する感覚。
昼間は役所で「療育」「通級」という福祉用語の荒波に揉まれ、夜は「抵当権」「担保責任」などという民法の迷宮に迷い込む。

「AがBに甲土地を売却したが・・・」という問題文を読みながら、「今、目の前にある子どもの将来設計の方がよっぽど大切じゃないか?」と自問自答を繰り返した。

手作りのおかずが減り、スーパーの惣菜が並ぶ食卓を見て、子どもに対して「ごめんね」と胸を痛める日々。

こんな状況で勉強を続けるのか?
これ、無理じゃない?

学生や独身時代のころとはわけがちがう。
思うように勉強することができない。
とにもかくにも、どうやっても、この状態での時間の確保は難しかった。

そんな状態で迎えた10月の試験日、受験結果は合格点に届かなかった。
自己採点をするまでもなかった。

試験日を迎えるまでの日々、イライラをぶつけたうえ、寂しい思いをさせてしまった子どもに「ごめんね」と言ったんだけど、視界が滲んで言葉さえ震えた。
立っているのが不思議なほど、心身ともにボロボロだった。

戦略の変更と「チーム戦」

「あんなに無理して、結局ダメだったじゃないか」
そんな心の声が聞こえた。

でも。
私のモットーは『継続は力なり』なのだ。

やめればそこで終わり、続ければ何かが見えてくる。
1年目の不運を、2年目のバネに変えると決めた。

私は、おーさわ校長に再受講を宣言した。
子どもにも「もう一回だけ頑張らせて」と。

子どもとは「終わったらいっぱい遊ぼう」と約束した。
そんな子どもとの約束のベースにあるのは、私の闘魂だった。
2年目の戦略を立てた。

「環境は変えられない」なら「勉強を生活の一部にする」

これで勝負をすることにした。

■ 生活への溶解
隙間時間をゲーム感覚で使い切る。通院の待ち時間は持ち運び問題集。通勤時間は動画視聴。

■ チーム戦への切替え
完璧な母親を一度お休みした。冷凍食品やレトルトをフル活用。家事を時短。ママ友や放課後デイサービスの協力も仰ぎ「一人で抱え込まない」体制を作った。

そんな中、またも試練が襲う。
7月にコロナ感染、そのうえ、8月の左手首のプレート/ボルト除去手術当日には、なんとインフルエンザ感染が判明し、強制退院。

さらに。
夏休み明けから子どもが不登校に。

「なんなのよ、もう!!!」
・・・と叫びたくなったが、2年目の私は強かった。

手首の再手術までの期間も、リハビリの待ち時間も、キッチンで玉ねぎを切りながらも、常におーさわ校長の音声講義を聞き続けた。
勉強ではなく、私の生活のBGMと化した。
「お母さん、がんばってね」という子どもの言葉が、何よりの燃料となった。

人付き合いが極端に減った試験直近は、孤独感を解消することができる宅建ダイナマイトの夜会(というライブ配信が当時ありました。今もあるのかな?)が楽しみとなった。
画面の向こうに仲間がいる安心感。

宅建と全く関係ない話題も飛び交い、夜遅くまで話が盛り上がる。
そんなひとときが気分を変えてくれた。
おーさわ校長とのとりとめのない話が、張り詰めていた心を、ふっと緩めてくれた。
ほかの誰かが校長と話している時間は、最高の「ながら勉強」タイム。
耳を傾けながら、ふと思いついた疑問をその場でぶつけることもできた。

圧倒的な合格と子どもとの約束

試験当日。
1年目には宇宙語に見えた問題が、驚くほどスラスラと読めた。

来年も同じことはできない。

絶対合格する。
私は負けない。

そんな思いをすべて叩きつけた。

そして。
試験当日の夜、自己採点の手が震えた。
33点が合格ラインだったその年、私の自己採点は38〜40点。
合格だと確信した。
合格発表の日、自分の番号を見つけた時の安堵感は一生忘れない。

真っ先に子どもをぎゅっと抱きしめた。

「合格したよ、ありがとう」
「おかあさん、よかったね! どこに遊びに行こうか!」

失敗してもめげずに挑戦し続ける母の背中を、この子はちゃんと見ていてくれたかな。
そんな私の姿が、それを見ていた経験が、いつかこの子の人生の糧になってくれたら。

1年前の自分へのエール

「余裕がなくて、涙を流しながら、誰かにいつも謝っていたあなたへ。本当によくやったよ。あなたは、やればできるんだよ。」

もちろんキャリアへの不安がすべて解消されたわけではないけれど。
けれどもね。
「宅建合格」という揺るぎない自信は、私の心に確かな灯をともしてくれた。

学生時代とは違う、大人だからこその、母だからこその戦い方がある。
私は戦った。
でもね、ここからが本当のスタート。

だから戦いを続けます。
やってみます。

我が子よ、そんな母をちゃんと見ていてね。

そんなにたいへんな日々だったとはまったく気が付きもしませんでした!!

いやーすげーわ、そうだったんだー。
いただいた体験記を読んではじめて知ったぜ!!!

maikoさんは、いつもキリっとしているイメージだった。
そんな日々だったんだね。
でもほんと、あっぱれだよ。
最高だよ。
宅建ダイナマイトをやっていてよかったぜ。

ってか、あの「夜会」を、そんなふうに活用してくれていたなんてことも、あっはっは、いま知った。
たしかにみなさん、受験勉強の最中は、孤独感もあるだろうしね。
「夜会」は「夜会」で意味があったとしたら、オレもうれしいぜ。

2年目からの逆襲は、さすが宅建ダイナマイターズ。
「そんな思いをすべて叩きつけた」っていうところが、サイコーにかっこいい。
やるじゃん!!

そういえばそうだよね、maikoさんいっぱい質問してくれた。
オレもね、なんかほら「頼りにされている」っていう感じがしたので、“答え甲斐”っていうのがあったけど、あ、すまん、いじめてたわけじゃねーっつうの(笑)。

maikoさんの「合格体験記」を読める今となっては、あのときのあれこれも楽しい思い出です。

宅建ダイナマイトにきてくれてありがとう。
この場を借りて御礼を申し上げます。

そうそう、おっしゃるとおり、合格してからが人生の本番。
宅建ダイナマイトの登録実務講習でお会いして以来、ちょっとごぶさたしてるけど、またあれこれ合格ダイナマイターズのみなさんと交流できる企画を考えておくから、また遊びにきてね。

宅建ダイナマイト合格スクール
おーさわ校長(大澤 茂雄)